昭和45年10月31日 夜の御理解
ひとつ今日振り返らせて頂いて、しみじみと、とまあ云う言葉を使ったが、一番それに当たると思うんですけれど、しみじみとお礼を申し上げると云うことと同時に、今月は、しみじみとお詫びを申し上げると、いう様な、それが今晩の御祈念の、いわば実感でございました。ほんとにあれもこれもまあ、様々に丁度御大祭月、御本部参拝月、様々の事がございました。その一事一事が願い以上の、まあいわば。
おかげを頂いてまいりましたが、結局十月の月は天赦願と云われる。ほんとにあの許されての願いを、も少し堂々と願い、願いに姿勢を造らなければならなかったことを思いますのに、その事が出来ていなかったと云うことなんです。天赦願、願いの信心と云うだけで、果してどう願ってきたか。ね、願うと云う実感がそこに伴うてなかった。願わんでもやはりおかげを頂いてきて居ると云うと。
今までとさほどに変わらないことではなかったかと。第一願う姿勢を造って来なかったと云うことがね、まあその願う姿勢が、合楽の全体の上に漲ってこなかったと云うことは、ほんとに相済まんことだったなと、まあ思わせて頂いてお礼なりお詫びを、ま、させて頂いたのでございますが。ええ只今ここへ出て来たと云うて御祈念前にこれは十一月のまあ焦点ですね、「一心の真を捧げての願いになろう」と。
ここんところを一ついよいよ一心の真を捧げての願いにならして貰わなければならない。ほんとに願いの姿勢にならなければならない。その願いの姿勢が出来なかった事が、もう限りない相済まないまあお詫びに尽きた訳ですけれど、ね、結局一心の真を捧げての願いと云うことのまでの姿勢にならなかった。どうでも一つ本気での願いの信心を頂かせて貰わなければならん。
自分の体が動かず、自分が思う様に出来ないと、どうしても人にこれを求めます。例えば、私の場合を申しましても、自分がああありたい、こうありたいと思いましても、やはりこの頃、やはり体の方が言う事を利かんと。ね、ですから、そこんところを皆さんに求めたりまあ、云うなら子供達に求めたり致します。その求めて居るものが、一つも求めたように動かない。
そこんところに例えば、はがいさを感じる。これが自分の体が不自由になってきた人の実感ではなかろうか。ここも掻いて欲しい、あれも取って欲しい。けれども自分の五体の方が言うことを利かん。そこのところを、まあここですかと掻いてくれる、あああれですかと取ってくれると云う様なですね、そういう信心を私は求めて居ると云うことは、確かに間違いじゃなかろうけれども、そこに不満とか不平を感じることは間違いだと分かって居るけれど、そこにもどかしさがある訳です。
今日も私そういうまあ月末、月終りの様々な事柄を通してお礼を申し上げたり、同時にこれをほんとにみんなが打って一願となって、いわゆる神様が天赦願とさえ言うて下さるのですから、ね、ほんとに願う姿勢をみんなが示してくれると云う、そこに期待を持っとったのが出来ない。それは自分が出来ないから出来ない。ね、まあ沢山なこの月初め大祭月だからと云うて修行を思い立たれた方がありましたよ、いろいろと。
そしてお取次を願われました。けれどもそれが、ひとっつも中途半端で実行していない、皆が。ね、ほんとにこれではもう何にもならんなと、まあそこにその、いらいらがま出て来る。そんな例えば、思いをさして居りましたら、「大坪」と云うことを頂きました、字で。いわゆる、大坪というのは私の姓ですけれども、ね、だからこれは、大抵の事はまあ大きくなれと云うことでもありましょう。だけではなくて、大きく詫びよと云うことであったと思った。
合楽に縁のある限りの人達の信心姿勢と云うものが、只今迄と何処に違ったことがあるかと、あれ程に神様が願え、願えと言うて下さるのに、どれだけなら願いの姿勢をとりよるか、ほんとに残念至極である。とうとうおかげは願い以上のおかげは頂きながら、一つ今日終わったと云うことはどんなにお礼を申し上げても足りないことであるけれども、その神様の願いに応えての願いの信心が出来なかったと云う事。
なるほど、十一月に又一段とそこのところに具体的にね、教えて下さったのが一心の真を捧げての願いになろうと云うことであろうと、と、云うことは一心の願いの姿勢を造れと云うことだと思うんです。ね、ですから、出来なかったことを、例えばそのこと神様に頂いてですたい、ね、大坪と云うことを頂かせて貰うて、ね、土偏に平たいと書いてありますから、それこそ大地にひれ伏した様にして詫びて行くより他にはない。これは私が詫びるより他にないのだと、
しかも詫びるだけではない、私が改まって詫びるより他にないなと、しかも今迄の詫びと違ったもっともっと広い範囲に於いてのお詫びを私がするより他にないなと云うことを分からせて頂いたら、なにか今晩のなら御祈念に入らせて頂けれると云うかね、そういうまあそのことをお礼はお礼として、お礼を申し上げれると云う気持ちが湧いた様な気が致します。どうぞ皆さんも一つ自問自答、そして反省させて頂かなければならない月であったなと思うのです。ね、
十月と云う月はおかげ月、確かにおかげ月で終わった。ね、信心も出来んのにおかげを受けて来たと云うことであった。一つ十一月に向かっての信心を進めさせて頂く為に、の、私は十月の反省が為されて、ほんとに願いの姿勢と云うものが全然出来ていなかった。只ちょこちょこと参って来て願うて、それでも願うたことの様に思うて、それだったら今までとおんなじじゃないかと、ね。どれだけ変わり映えがあったか、天赦願に応える願いと云うものが出来たかと、ほんとに相済まんことであったと。
皆さんが出来なかったこと、これはまあ、いらいら、もやもやする方が悪いのであって、私が大きく平たく詫びる姿勢を造らせて貰い、そして次の願う一心の真を捧げての願いにならして頂くことを、今晩の御祈念のお礼なり、お詫びなりまたお願いなどをさせて頂いたような訳でございますがね、一つお互いの天赦願に応える願いと云うことににどの様な姿勢を取って居ったか、ね、そこのところを反省させて貰うて、次のいよいよ願い、神様に喜んで頂く願いの姿勢をとらせて頂かなければならんと思うですね。
どうぞ。